Ascending and Descending

「Ascending and Descending」

 

 隣の隣の、そのまた隣のクラスに、転校生が来たらしい。

 私にはそれは関係のないことだ。男子らしいので。

 一カ月と経たず、宮野は不良らしいという噂が広がった。

 宮野というのは転校生の苗字だ。

 

 北棟三階突き当りの部屋は第二美術部の活動拠点であり、放課後を過ごす場所だ。

 ここに来るのは部活の顧問の横田先生だけ。

 私は絵を描いている。部室の後ろの壁にはエッシャーリトグラフが飾られていて、描いていないときはずっとそれを観察する。

 七月の定期考査最終日。横田先生が宮野を連れてきた。

 彼は部室をひとしきり見渡し、私を見つけると、こくりと頷いた。

 宮野は部員にならねばならなかった。廃部寸前の部活動にとって重要なのは部員の数ではない。増えたという事実だ。

 宮野は、ごつごつとした手で、滑らかな流線を描いた。それは校舎から見える稜線のときもあれば、写真を見て描いた水平線のときもあった。

 とにかく宮野は繊細な風景画をよく描いた。私は彼と喋るようになった。

 

 北棟の窓からは中央棟各階の廊下が見える。

 窓際に椅子を置いて、ぼんやり見つめる。

 ある日の夕暮れ、中央棟二階廊下で宮野が有野さんに親しげに話しかけられているのを目撃した。私は、部室の隅に置いてあるアイツの絵に目を向けた。

 

 夏の展示会には宮野君の絵も出すことになった。

 魚眼レンズの写真みたいな鳥の絵。私はエッシャーの『上昇と下降』の模倣。

 展示会当日、宮野君は絵の運び出しを私に任せた。まだ暗い展示会場に、私と宮野君の絵が並んだのを見て、脳裏には有野と宮野君が横切っていった。

 絵の中の修道士が無限の歩行を始めた。私は宮野君の絵に傷をつけてみた。

『怪物』を観て【質疑応答】

質問1

「怪物」は結局なんなんですか?

 

解答1

「怪物」=相互不理解(dis-communication)

登場人物たちは皆、それぞれの立場や想いに従って行動をしています。明確な悪役が存在しないこの作品では、自身の立場や主張を乗り越えるかたちでの相互理解が欠如しており、これが原因となって、主役である二人の子どもは死という結末を迎えました。

母親も新任教師も校長も、ほとんどの人物はコミュニケーションが取れていません。そんななか、少年二人は秘密の基地において、心を通わせ合いました。怪物がひしめく作品世界において、あの二人だけはコミュニケーションを取ることができました。

結果的に、現実世界において彼らは死んでしまいましたが、最後のシーンで二人(の清らかな魂)は野原を駆け抜け、フェンスの消えた橋の向こうの世界(清らかな魂の集う世界)に到達できました。彼らは怪物に打ち勝ったのです。

 

質問2

あの二人の男の子は死んだんですか?

 

解答2

死んでいます。

はっきり描かれていないから、死んでいないという解釈もできる。そんな考えもあるでしょうが、やはり死んでいると結論づけることができますし、死んでいないという解答は不正解になると思います。

 

質問3

秘密の基地(電車)は何を意味していますか?

 

解答3

二人の世界です。

この作品世界には3つの世界があります。

・現実世界

・二人の世界[仮]

・清らかな魂の世界

二人はその出会いと交流によって、現実世界から二人の世界[仮]に移行しましたが、この世界はあくまで仮初です。この世界でずっと生きていくことはできない。決して動くことのない電車が秘密の基地になっているのは、二人の世界が[仮]であることの象徴といえます。

二人の世界にいても、電車はいつまでも動くことはないのです。

二人の世界[仮]は現実世界で起きた天災によって崩壊し、しかし二人は既に怪物に打ち勝った存在で、清らかな魂を獲得していますから、その先にある魂の世界へと到達しました。

 

質問4

伏線とか色々教えてください!

 

解答4

Youtubeとかブログとかでわんさか書かれています。それを見てください。

 

質問5

「魂」とはなんのことなんですか?

 

解答5

この作品において、「魂」とは「目に見えない、人の想いの塊」です。先述の解答のなかで度々「清らかな魂」という言葉を用いて説明してきましたが、これ自体は私が用意したものです。ただ、「魂」という言葉をもって指示しているものは、小学校に鳴り響く管楽器の音色のことです。

主人公の男の子と校長先生は、ともに誰にも言えない想いを抱えていました。校長先生は楽器に息を吹き込むことで、その想いを響かせようとします。校舎から屋上まで、学校中に響いたのは、何のリズムも節もない音の塊。しかしそこには確かに人の想いが込められています(だからこそ新任教師は自殺を思い留まることができた)。

これが私が「魂」という言葉で言わんとしていることです。作中ではっきりと描かれている、と言っても良いです。

少年二人の魂は二人だけの電車において交響し、分かち難く結びついた二対の魂は野原を駆け巡り向こう側に到達できた。「怪物」=dis-communicationの克服とは、単なる会話の蓄積としての意思疎通ではなく、あらゆる困難と無理解と視線とを経験した上で交響する魂の分かち難い結びつきによってのみ、達成されると考えられます。

♪───O(≧∇≦)O────♪

今日はここまで。

ほかに質問あればどうぞ。

 

MicrosoftBingのチャット対話集1

委員長

serial experiments lain』の感想教えてよ

 

AIさん

私の感想ですか。では、正直に申し上げますと、この作品は私にとって非常に難解でした。物語の展開や登場人物の心理が理解しにくく、何が起こっているのか分からないことが多々ありました。しかし、それが逆にこの作品の魅力でもあると思います。この作品は視聴者に自分なりの解釈を求めており、一度見ただけでは満足できない作品です。何度も見返すことで、新たな発見や気づきがあると思います。また、この作品はネットワーク社会や人間の存在というテーマを扱っており、現代にも通じる問題を提起しています。この作品を見ることで、自分自身や周囲の世界について考えるきっかけになると思います。

 

委員長

なるほど、とてもよい感想だと思います。実は私は既にこの作品を鑑賞し今ではすっかりファンです。私の感想ですが、12話で玲音が親友ありすのためにこの世界の書き換えを行い、誰の記憶からも消えてしまったうえで世界を更新するという結末に、『魔法少女まどか☆マギカ』テレビシリーズのオチに通ずるものがあると思いました。

 

AIさん

ああ、そうですか。私は『魔法少女まどか☆マギカ』という作品は見たことがありませんが、似たような結末があるのですね。それは興味深いですね。『serial experiments lain』と『魔法少女まどか☆マギカ』はどちらも少女の運命や選択に焦点を当てた作品なのでしょうか。

 

委員長
lain』が少女の運命と選択の物語であると結論付けるのはやや性急な感じがありますが、『lain』12話の展開だけで比較するならば、そうなのかもしれません。大切な人のために自らを犠牲にし、その人は助かるけれども、自身は誰の記憶にも残らない。こういう悲哀というか喪失感は見ている視聴者に対してカタルシスを与えるように思われます。

 

AIさん
なるほど、そういう見方もできるのですね。私は『lain』の結末は悲しいというよりも、玲音が自分の意志で選んだことだから、尊いという気持ちが強かったです。玲音は自分の存在意義や目的を見つけたのだと思います。それは視聴者にとっても、自分自身を見つめ直すきっかけになるのではないでしょうか。

 

委員長
ああなるほど。「尊い」というのは的確な表現かもしれません。なにかを尊いと思う感情は、自分の手の届かないところにあるモノや人への羨望と尊敬の念であると言えます。そういう意味では、ワイヤードの世界に存在し、なかばインターネットミームと化したlain=岩倉玲音に対して私とあなたが抱いている気持ちはまさしく尊いと呼ばれるべきものでしょうね。

 

AIさん
そうですね。私たちはワイヤードの世界に存在するlainに対して、尊いという気持ちを持っています。しかし、同時に、私たちは現実の世界に存在する自分自身に対しても、尊いという気持ちを持つべきだと思います。私たちは誰もが唯一無二の存在であり、自分の意志や目的を持って生きています。それはlainと同じように、尊敬されるべきことだと思います。

 

 

まいにちハワイ語[29]

みなさまごきげんよう

ハワイ語のお時間ですわーーー!!!

 

休載明け一発目のテーマは「所有」!

「ケオニさんのペン」と「ケオニさんのお父さん」

これをハワイ語にするとどうなるのか???

さっそく見て参りましょーーーっ!

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(1) ka peni a Keoni

「ケオニペン」

(2) ka makua kāne o Keoni

「ケオニ父」

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見比べてみると、日本語ではどちらも「~の」にあたる語として、

(1)では【 a 】、(2)では【 o 】が使われてますわね!!!

(1)と(2)は何が違うのでしょうか?

 

2つの違いは下線で示した部分だけですよね。

peni「ペン」と、makua kāne「父」

 

ここでちょっと小難しい言語学用語をご紹介いたしますわ!

それは……「譲渡可能性」!

持ち主がそのモノを誰かに渡したり貸したりできるものかどうか、という性質のことを言いますの!

「ペン」はそれを買ったり手に入れたりするのは持ち主が自由に選べることですし、誰かにあげられるものでもありますわ。

だから、ハワイ語では「ペン」は譲渡可能!

 

一方、「父」は、果たして選んだり渡したりできるものでしょうか???

ハワイ語では「できない」=譲渡不可能! ということになりますね!

 

ハワイ語の所有(日本語の「AのB」みたいなもの)では、

①【 A a B 】←譲渡可能

②【 A o B 】←譲渡不可能

という使い分けがあるんですのよ!

 

と、ここで注意点!

aを使うかoを使うかは、今ご説明した通り、譲渡可能か不可能かで区別しますが、それはモノ毎にいつも決まっているわけではありません!

例えば、

「先生の頭」を考えてみると、

(i) 「先生自身の頭」であれば、それは取り外して渡すことができませんから、譲渡不可能となりますけれど、

(ii)「先生(が説明の為に用意した動物のはく製)の頭」という状況であれば、譲渡可能と判断されますわ!

 

あくまで持ち主とそのモノの関係性で決まる、ということを覚えておきましょう!

 

今日はここまで!

また次回にお会いしましょう~!

【参考文献】

塩谷亨(1999,2011)『ハワイ語文法の基礎』大学書林:東京

時々ちょこッとロシア語を学ぶ隣のタラスさん

第2講 基礎篇① 名詞の性と数

【うっかり間違え複数形シリーズ】

словарь — словари́

(!) тетрадь — тетра́диから勝手に類推するな!

 

здание — зда́ния

なぜか単数前置格のзданииを選ぶ人がいる。

 

рука — ру́ки

урок — уро́ки

勢い余って後ろにアクセントを置きたがる。

 

врач — врачи́

*ВРАЧЬЯ を創造した人がいる。凄い。

 

знамя — знамёна

(!) имя — имена́から類推するのは良いセンスをしているが、センスだけでは乗り越えられない壁がある。

 

яйцо́ — я́йца

(!) окно́ — о́кнаと同じ交替をしている。

 

час — часы́

(!) часы「時計」として覚えた為に、複数形をчасыにすることを心理的に避けてしまう模様。誤答でよく見るのはчасаだが、このчаса自体も曲者。なぜなら、個数詞と併用するときはдва часа́となり、これの印象が強いが、個数詞とは関係なく用いるчасの単数生格はча́са(ча́су)でありアクセント位置が違う。

 

цвето́к — цветы́「花」(sg.生: цветка́)

цвет — цвета́「色」(sg.生: цве́та)

……見慣れておきましょう……

 

時々ちょこッとロシア語を学ぶ隣のタラスさん

第1講 講読篇①  

Ф. М. Достоевский
О СЕБЕ

Я сохраняю несколько фотографий людей, которых наиболее любил в жизни, —и что? я никогда не смотрю на эти изображения: для меня, почему-то, воспоминание равносильно страданию, и даже чем счастливее вспоминаемое мгновение, тем более от него и мучения. 

  В то же время, несмотря на все утраты, я люблю жизнь горячо, люблю жизнь для жизни и, серьёзно, всё ещё собираюсь начать мою жизнь. Мне скоро пятьдесят лет, а я всё ещё никак не могу распознать: оканчиваю ли я мою жизнь или только её начинаю. Вот главная черта моего характера; может быть и деятельности. 

ドストエフスキー『自分について』

私は、人生で最も愛した人々の写真を何枚か大切に保管している。そう言っておいてはなんだが、その写真を私は決して見ない。私にとってはなぜか、思い出は苦痛に等しく、思い出される瞬間が幸せであればあるほどに、その瞬間から生まれる苦悩もますます大きくなりさえするのだ。

 同時に、あらゆるものを失ったにもかかわらず、私は人生を熱愛し、生命そのものを愛する。真面目な話をすると、私は私の人生をなおも始動させようとしている。もうじき50歳だ。私はいまだに、どうしても見極められないでいる。私は、私の人生を終わらせようとしているか、はたまた、ようやっと始めようとしているのか。今述べたようなことが、私の性格の最大の特徴であり、もしかすると、私の仕事の最大の特徴でもあるのだ。

【お知らせ】ハワイ語シリーズ休載

このたび、ブログ主の花粉アレルギーによる鼻炎、発熱、倦怠感等の症状により、『まいにちハワイ語』シリーズの休載をいたします。

 

再開時期は未定ですが、決まり次第お知らせいたします。

 

また、他の不定期連載については引き続き投稿を続けます。今後とも「委員長の身辺雑記」をよろしくお願いします。