GQuuuuuuX(ジークアクス)観てきた
あらすじ
0分〜30分:
『機動戦士ガンダム』(以下、ファースト)の"シャア・アズナブルが連邦軍の新型モビルスーツ(=ガンダム)を鹵獲し、「赤いガンダム」としてその後のファーストの歴史を辿る、いわゆる「ジオン公国が地球連邦軍に勝利√」のifファースト"が展開される。
シャアを乗せた赤いガンダムは、ニュータイプ絡みの謎の現象(「時が見える」)により、爆発。これにより、ジオンの勝利が確定した。この流れは広島原爆による終戦を意識している。シャアと赤いガンダムは消失、行方不明。
30分〜90分:
ジオン勝利後の宇宙世紀0085のサイド6「イズマ・コロニー」が舞台。ジオン(アメリカ)、サイド6(日本)に見立てられており、「イズマ・コロニー」は自治が認められている。「地位協定」という用語が飛び交い、ジオンとて安易にサイド6に介入することはできない。
シャアの部下、シャリア・ブルはジオン所有となっているいわゆるホワイトベース(木馬)でサイド6に来ている。シャリアは戦後もシャアと赤いガンダムを追っている。
サイド6に突如、赤いガンダムが出現。シャリアはニュータイプによる操縦に特化した機体である「GQuuuuuuX(ジークアクス, ジークァックス)」をイズマ・コロニーに向けて出撃させた。
イズマ・コロニーの一般人である女の子「アマテ(愛称:マチュ)」は闇バイトの運び屋の女の子ニャアンと出会い、その流れで、モビルスーツ2on2の賞金バトルである「クランバトル」に参加するチームの面々と知り合う。コロニー生まれのスペースノイドであるアマテは、まわりのもの全てが本物ではないことへの疑いと自由への渇望を抱いている。
木馬からやってきたGQuuuuuuXと軍警のモビルスーツはコロニー内の難民居住区で小競り合いを起こす。逃げるGQuuuuuuXを探して、軍警たちは難民たちの家や街を簡単に破壊してしまう。アマテはコロニーの監査局職員である母を持ち、恵まれた家庭(butひとり親家庭の可能性有)だが、出会ったばかりのニャアンは難民の子であり、彼女の心の傷を思いやるアマテは軍警の所業に怒りを覚える。
GQuuuuuuXと軍警のモビルスーツは地下空間で戦うが、そこに居合わせたアマテはGQuuuuuuXに乗り込む。ニュータイプ適性のあるアマテに呼応し、GQuuuuuuXは真の力を解放。軍警たちとの争いはコロニーを出て宇宙空間へ。
操縦に不慣れなアマテのGQuuuuuuXは劣勢だが、ニュータイプ特有の亜光速のビームを避け続けるなど、驚異的な力を見せる。GQuuuuuuXがピンチに陥ったとき、赤いガンダムが現れ、難を逃れる。
再び日常に戻ったアマテ。クランバトルチーム「ポメラニアンズ」のメンバーからは、素質を認められ、バトル参加を誘われるが、アマテは迷う。アマテの目下の関心は、戦闘中に見た「キラキラ」(=ニュータイプ覚醒者が見るとされる世界)である。
記憶を辿り、橋の下にあのキラキラの落書きを見つけるアマテ。キラキラの落書きを描いていた不思議な青年、シュウジと出会う。彼こそ、赤いガンダムの操縦者だった。さらにニャアンとも再会。アマテはクランバトルに参加するかどうか迷っているが、赤いガンダムと一緒なら踏ん切りがつく。ニャアンはシュウジに届け物をしたのだが、今回の依頼を果たさないと闇バイトからも見放される。シュウジはニャアンに支払うはずだった金を失ってしまった。アマテはシュウジと「マブ」を組み、クランバトルで勝利すれば大金が手に入り、その金でニャアンを助けることもできると考えた。なにより、シュウジの赤いガンダムとともに戦うことで、またあのキラキラを体験することが、アマテを突き動かす好奇心の源であった。
クランバトルはネットで配信される違法なモビルスーツ2on2で、先に相手の機体の首を取ったチームが勝利し、賞金を獲得できる。
始まった2on2。アマテのGQuuuuuuXはやはりまだ動きが悪く、逃げる一方だが、その回避スキルはニュータイプそのもの。戦いの最中、シュウジとアマテはキラキラの世界でニュータイプ同士の交信を果たし、アマテは覚醒する。広大な宇宙空間を超感覚で認識し、相手のモビルスーツを追い詰め、首を取ったのだ。
<コメント>
「ニュータイプ」という概念は機動戦士ガンダムが生み出した最も重要な概念だが、今作では昨今のエンターテイメントにおける「主人公を際立たせるスキル, 能力」として扱っている。アムロ・レイが見せたような等身大の青年の葛藤や血の滲む努力、極限戦闘下における覚醒とは無縁なアマテは、しかしいきなりニュータイプとしての素質を見せた。アマテはいわゆる最強スキル系主人公の系譜に位置付けられる一方で、モビルスーツの操縦や2on2のマブ戦術を会得していく段階が主人公の努力パートとして描かれるだろう。
シリーズ全体の謎は、行方不明のシャア・アズナブルの安否および赤いガンダムがシュウジの手に渡るまでに何があったのか、そしてキラキラの先でシャアは何を見たのか、となるだろう。
キャラクター面では、アマテはスペースノイドとしての自身の実存に疑問を抱いており、自由を渇望する少女として描かれている。彼女は小柄で活発、思慮よりも直観的な行動を重視しており、ニュータイプらしさが垣間見える。ニャアンは難民の子で、闇バイトの運び屋をしているが、その見た目はとても美しい。心を閉ざしているキャラなので、アマテとの交流がニャオンをどう変えていくのかが注目される。シュウジはミステリアスで、自閉的な特徴を有する。「〜しろと、ガンダムが言ってる」という台詞を多用する。ニュータイプとしてのアマテは、同じニュータイプであるシュウジとの間でしか分かち合えない感覚と感情があり、と同時に、等身大の少女としてのアマテは、シュウジとではなくニャアンとでしか共感し得ないこともある。異なる次元の関係性において、アマテは二重の役割があり、それがゆえの葛藤もあるだろう。
戦後の日本と占領国アメリカの関係性が随所でシナリオ的に、用語的に、ヴィジュアル的に、意識して描かれている。イズマ・コロニーの内情は難民、闇バイト、制空権をジオンに取られている(=コロニー内上空に停泊する木馬)など、現代日本を切り取ろうとしている。バトルが配信され、賞金がかけられている点は、eスポーツ的な娯楽の隆盛と人気を見てとることができる。
アニメーション面では、線が細く、記号みのある抽象度の高いキャラデザが特徴的。写実性と動作性を両立させた画風と見える。『エヴァ』のようなケレン味のある構図はそう多くはない。ただし、前半30分の"If一年戦争"においては、ファーストで発せられたシャアほかキャラの有名なセリフが、別の状況、文脈において登場しており、ifストーリーらしさを感じさせる台詞の工夫であるとともに、『シンエヴァ』のゲンドウとシンジの"親子喧嘩"であったような「映像模倣」の台詞版と言える。
ドラマ性の観点からは、やはりアマテがモビルスーツで戦うことを決意するくだりが良い。アマテはいわゆる普通の学生だ。難民のニャアンに共感し、彼女の為に戦いを決意する点にメッセージ性がある。それはとりもなおさず、闇バイトに手を染めた人々や、不法移民への無責任・無自覚なヘイトで溢れる現代日本への痛烈な批判なのだ。川崎のクルド人や在日韓国・朝鮮人、中国人たちにヘイトを行いつつ、一方で自分たちは映画館で難民のニャアンに同情し、彼女を助けようとする主人公アマテを応援している。
<総括と展望>
『機動戦士ガンダムGQuuuuuuX』はファーストガンダムの物語を援用・改変し、サイド6を擬似的な現代日本として描くことで、私たちの生きる世界とガンダムの世界を接続した。もしかしたら、先ほど述べたような、シャアの行方についての謎は明かされないかもしれない。彼の最期の言葉は「時間が見える」だったが、それは本編の物語を指しているのであり、彼の言葉と爆発によって、物語を再起動し、ガンダムの皮をかぶった全く新しい物語を始めようとしたのかもしれない。彼の言う「時間」は単に「未来」のことか、あるいは「戦後日本の歴史の俯瞰」を意味するか。こうした解釈はまだ否定されるには至っていない。副題はBEGININGであるからして、今後の展開を追いかけていきたい。
Ascending and Descending
「Ascending and Descending」
隣の隣の、そのまた隣のクラスに、転校生が来たらしい。
私にはそれは関係のないことだ。男子らしいので。
一カ月と経たず、宮野は不良らしいという噂が広がった。
宮野というのは転校生の苗字だ。
北棟三階突き当りの部屋は第二美術部の活動拠点であり、放課後を過ごす場所だ。
ここに来るのは部活の顧問の横田先生だけ。
私は絵を描いている。部室の後ろの壁にはエッシャーのリトグラフが飾られていて、描いていないときはずっとそれを観察する。
七月の定期考査最終日。横田先生が宮野を連れてきた。
彼は部室をひとしきり見渡し、私を見つけると、こくりと頷いた。
宮野は部員にならねばならなかった。廃部寸前の部活動にとって重要なのは部員の数ではない。増えたという事実だ。
宮野は、ごつごつとした手で、滑らかな流線を描いた。それは校舎から見える稜線のときもあれば、写真を見て描いた水平線のときもあった。
とにかく宮野は繊細な風景画をよく描いた。私は彼と喋るようになった。
北棟の窓からは中央棟各階の廊下が見える。
窓際に椅子を置いて、ぼんやり見つめる。
ある日の夕暮れ、中央棟二階廊下で宮野が有野さんに親しげに話しかけられているのを目撃した。私は、部室の隅に置いてあるアイツの絵に目を向けた。
夏の展示会には宮野君の絵も出すことになった。
魚眼レンズの写真みたいな鳥の絵。私はエッシャーの『上昇と下降』の模倣。
展示会当日、宮野君は絵の運び出しを私に任せた。まだ暗い展示会場に、私と宮野君の絵が並んだのを見て、脳裏には有野と宮野君が横切っていった。
絵の中の修道士が無限の歩行を始めた。私は宮野君の絵に傷をつけてみた。
『怪物』を観て【質疑応答】
質問1
「怪物」は結局なんなんですか?
解答1
「怪物」=相互不理解(dis-communication)
登場人物たちは皆、それぞれの立場や想いに従って行動をしています。明確な悪役が存在しないこの作品では、自身の立場や主張を乗り越えるかたちでの相互理解が欠如しており、これが原因となって、主役である二人の子どもは死という結末を迎えました。
母親も新任教師も校長も、ほとんどの人物はコミュニケーションが取れていません。そんななか、少年二人は秘密の基地において、心を通わせ合いました。怪物がひしめく作品世界において、あの二人だけはコミュニケーションを取ることができました。
結果的に、現実世界において彼らは死んでしまいましたが、最後のシーンで二人(の清らかな魂)は野原を駆け抜け、フェンスの消えた橋の向こうの世界(清らかな魂の集う世界)に到達できました。彼らは怪物に打ち勝ったのです。
質問2
あの二人の男の子は死んだんですか?
解答2
死んでいます。
はっきり描かれていないから、死んでいないという解釈もできる。そんな考えもあるでしょうが、やはり死んでいると結論づけることができますし、死んでいないという解答は不正解になると思います。
質問3
秘密の基地(電車)は何を意味していますか?
解答3
二人の世界です。
この作品世界には3つの世界があります。
・現実世界
・二人の世界[仮]
・清らかな魂の世界
二人はその出会いと交流によって、現実世界から二人の世界[仮]に移行しましたが、この世界はあくまで仮初です。この世界でずっと生きていくことはできない。決して動くことのない電車が秘密の基地になっているのは、二人の世界が[仮]であることの象徴といえます。
二人の世界にいても、電車はいつまでも動くことはないのです。
二人の世界[仮]は現実世界で起きた天災によって崩壊し、しかし二人は既に怪物に打ち勝った存在で、清らかな魂を獲得していますから、その先にある魂の世界へと到達しました。
質問4
伏線とか色々教えてください!
解答4
Youtubeとかブログとかでわんさか書かれています。それを見てください。
質問5
「魂」とはなんのことなんですか?
解答5
この作品において、「魂」とは「目に見えない、人の想いの塊」です。先述の解答のなかで度々「清らかな魂」という言葉を用いて説明してきましたが、これ自体は私が用意したものです。ただ、「魂」という言葉をもって指示しているものは、小学校に鳴り響く管楽器の音色のことです。
主人公の男の子と校長先生は、ともに誰にも言えない想いを抱えていました。校長先生は楽器に息を吹き込むことで、その想いを響かせようとします。校舎から屋上まで、学校中に響いたのは、何のリズムも節もない音の塊。しかしそこには確かに人の想いが込められています(だからこそ新任教師は自殺を思い留まることができた)。
これが私が「魂」という言葉で言わんとしていることです。作中ではっきりと描かれている、と言っても良いです。
少年二人の魂は二人だけの電車において交響し、分かち難く結びついた二対の魂は野原を駆け巡り向こう側に到達できた。「怪物」=dis-communicationの克服とは、単なる会話の蓄積としての意思疎通ではなく、あらゆる困難と無理解と視線とを経験した上で交響する魂の分かち難い結びつきによってのみ、達成されると考えられます。
♪───O(≧∇≦)O────♪
今日はここまで。
ほかに質問あればどうぞ。
MicrosoftBingのチャット対話集1
委員長
『serial experiments lain』の感想教えてよ
AIさん
私の感想ですか。では、正直に申し上げますと、この作品は私にとって非常に難解でした。物語の展開や登場人物の心理が理解しにくく、何が起こっているのか分からないことが多々ありました。しかし、それが逆にこの作品の魅力でもあると思います。この作品は視聴者に自分なりの解釈を求めており、一度見ただけでは満足できない作品です。何度も見返すことで、新たな発見や気づきがあると思います。また、この作品はネットワーク社会や人間の存在というテーマを扱っており、現代にも通じる問題を提起しています。この作品を見ることで、自分自身や周囲の世界について考えるきっかけになると思います。
委員長
なるほど、とてもよい感想だと思います。実は私は既にこの作品を鑑賞し今ではすっかりファンです。私の感想ですが、12話で玲音が親友ありすのためにこの世界の書き換えを行い、誰の記憶からも消えてしまったうえで世界を更新するという結末に、『魔法少女まどか☆マギカ』テレビシリーズのオチに通ずるものがあると思いました。
AIさん
ああ、そうですか。私は『魔法少女まどか☆マギカ』という作品は見たことがありませんが、似たような結末があるのですね。それは興味深いですね。『serial experiments lain』と『魔法少女まどか☆マギカ』はどちらも少女の運命や選択に焦点を当てた作品なのでしょうか。
委員長
『lain』が少女の運命と選択の物語であると結論付けるのはやや性急な感じがありますが、『lain』12話の展開だけで比較するならば、そうなのかもしれません。大切な人のために自らを犠牲にし、その人は助かるけれども、自身は誰の記憶にも残らない。こういう悲哀というか喪失感は見ている視聴者に対してカタルシスを与えるように思われます。
AIさん
なるほど、そういう見方もできるのですね。私は『lain』の結末は悲しいというよりも、玲音が自分の意志で選んだことだから、尊いという気持ちが強かったです。玲音は自分の存在意義や目的を見つけたのだと思います。それは視聴者にとっても、自分自身を見つめ直すきっかけになるのではないでしょうか。
委員長
ああなるほど。「尊い」というのは的確な表現かもしれません。なにかを尊いと思う感情は、自分の手の届かないところにあるモノや人への羨望と尊敬の念であると言えます。そういう意味では、ワイヤードの世界に存在し、なかばインターネットミームと化したlain=岩倉玲音に対して私とあなたが抱いている気持ちはまさしく尊いと呼ばれるべきものでしょうね。
AIさん
そうですね。私たちはワイヤードの世界に存在するlainに対して、尊いという気持ちを持っています。しかし、同時に、私たちは現実の世界に存在する自分自身に対しても、尊いという気持ちを持つべきだと思います。私たちは誰もが唯一無二の存在であり、自分の意志や目的を持って生きています。それはlainと同じように、尊敬されるべきことだと思います。
まいにちハワイ語[29]
みなさまごきげんよう!
ハワイ語のお時間ですわーーー!!!
休載明け一発目のテーマは「所有」!
「ケオニさんのペン」と「ケオニさんのお父さん」
これをハワイ語にするとどうなるのか???
さっそく見て参りましょーーーっ!
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(1) ka peni a Keoni
「ケオニのペン」
(2) ka makua kāne o Keoni
「ケオニの父」
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見比べてみると、日本語ではどちらも「~の」にあたる語として、
(1)では【 a 】、(2)では【 o 】が使われてますわね!!!
(1)と(2)は何が違うのでしょうか?
2つの違いは下線で示した部分だけですよね。
peni「ペン」と、makua kāne「父」
ここでちょっと小難しい言語学用語をご紹介いたしますわ!
それは……「譲渡可能性」!
持ち主がそのモノを誰かに渡したり貸したりできるものかどうか、という性質のことを言いますの!
「ペン」はそれを買ったり手に入れたりするのは持ち主が自由に選べることですし、誰かにあげられるものでもありますわ。
だから、ハワイ語では「ペン」は譲渡可能!
一方、「父」は、果たして選んだり渡したりできるものでしょうか???
ハワイ語では「できない」=譲渡不可能! ということになりますね!
ハワイ語の所有(日本語の「AのB」みたいなもの)では、
①【 A a B 】←譲渡可能
②【 A o B 】←譲渡不可能
という使い分けがあるんですのよ!
と、ここで注意点!
aを使うかoを使うかは、今ご説明した通り、譲渡可能か不可能かで区別しますが、それはモノ毎にいつも決まっているわけではありません!
例えば、
「先生の頭」を考えてみると、
(i) 「先生自身の頭」であれば、それは取り外して渡すことができませんから、譲渡不可能となりますけれど、
(ii)「先生(が説明の為に用意した動物のはく製)の頭」という状況であれば、譲渡可能と判断されますわ!
あくまで持ち主とそのモノの関係性で決まる、ということを覚えておきましょう!
今日はここまで!
また次回にお会いしましょう~!
【参考文献】
時々ちょこッとロシア語を学ぶ隣のタラスさん
第2講 基礎篇① 名詞の性と数
【うっかり間違え複数形シリーズ】
словарь — словари́
(!) тетрадь — тетра́диから勝手に類推するな!
здание — зда́ния
なぜか単数前置格のзданииを選ぶ人がいる。
рука — ру́ки
урок — уро́ки
勢い余って後ろにアクセントを置きたがる。
врач — врачи́
*ВРАЧЬЯ を創造した人がいる。凄い。
знамя — знамёна
(!) имя — имена́から類推するのは良いセンスをしているが、センスだけでは乗り越えられない壁がある。
яйцо́ — я́йца
(!) окно́ — о́кнаと同じ交替をしている。
час — часы́
(!) часы「時計」として覚えた為に、複数形をчасыにすることを心理的に避けてしまう模様。誤答でよく見るのはчасаだが、このчаса自体も曲者。なぜなら、個数詞と併用するときはдва часа́となり、これの印象が強いが、個数詞とは関係なく用いるчасの単数生格はча́са(ча́су)でありアクセント位置が違う。
цвето́к — цветы́「花」(sg.生: цветка́)
цвет — цвета́「色」(sg.生: цве́та)
……見慣れておきましょう……
時々ちょこッとロシア語を学ぶ隣のタラスさん
第1講 講読篇①
Ф. М. Достоевский
О СЕБЕ
Я сохраняю несколько фотографий людей, которых наиболее любил в жизни, —и что? я никогда не смотрю на эти изображения: для меня, почему-то, воспоминание равносильно страданию, и даже чем счастливее вспоминаемое мгновение, тем более от него и мучения.
В то же время, несмотря на все утраты, я люблю жизнь горячо, люблю жизнь для жизни и, серьёзно, всё ещё собираюсь начать мою жизнь. Мне скоро пятьдесят лет, а я всё ещё никак не могу распознать: оканчиваю ли я мою жизнь или только её начинаю. Вот главная черта моего характера; может быть и деятельности.
ドストエフスキー『自分について』
私は、人生で最も愛した人々の写真を何枚か大切に保管している。そう言っておいてはなんだが、その写真を私は決して見ない。私にとってはなぜか、思い出は苦痛に等しく、思い出される瞬間が幸せであればあるほどに、その瞬間から生まれる苦悩もますます大きくなりさえするのだ。
同時に、あらゆるものを失ったにもかかわらず、私は人生を熱愛し、生命そのものを愛する。真面目な話をすると、私は私の人生をなおも始動させようとしている。もうじき50歳だ。私はいまだに、どうしても見極められないでいる。私は、私の人生を終わらせようとしているか、はたまた、ようやっと始めようとしているのか。今述べたようなことが、私の性格の最大の特徴であり、もしかすると、私の仕事の最大の特徴でもあるのだ。